昭和52年12月20日 朝の御理解
理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
おかげは頂いても頂いても、これで良いと言う事はない。勿論お徳ともなれば尚更のこと、限りない御徳に触れたいしまた頂きたい。それには神参りをするに、雨が降るから風が吹くからと言った様な事で、まぁ挫折すると言った様な事では、勿論限りないおかげとか、限りないお徳とかという事には触れられない。その辛抱こそ身に徳を受ける修行。いやその辛抱こそ辛抱の徳、もう雨が降るから風が吹くから、えらいと思うだんじゃない。もう只々有難い有難いと言う事になってくる。
何時から何時まで朝参りをする。なるほど辛抱してお参りをする。一つのことが成就する。もうそれでやれやれと言うのである。御結界の奉仕をする先生方でも、そうでしょう。御道の教師の資格は取ったけれども人が助からない。教会が発展しない繁盛しない。結局やっぱり辛抱しよう。御道の教師にでもなるからには、やはり自分の全身全霊を神様に捧げる。そんな思いに駆られてのことでありましょう。一生を神様に捧げると言う様な、その例えば初心は確かにそうでしょうけれども。
何時の間にか段々朝起きが出来なくなり。座っておくと言う事がきつうなり、そしてお話をしたり頭で考えることだけは、非常に発達して、辛抱力を失ってしまう。言うならば口ばっかりの先生と言った様な事になるから、信者もやはり聞くばっかりの信者と言う様な事にもなる。やはりあの雨が降るから、風が吹くからと言う事は辛いことがよしあっても、そこを辛抱すると言う事なんだ。それはもうここへ座っておると言う事でも、もう泣こうごと立とうごとある時もあるけれども。
それを辛抱しぬかせて頂いて、初めて辛抱して良かったと分かるようになり。その辛抱がもう辛抱じゃなくなる。ただ有難いというものだけしか残らない。例えば久留米の石橋先生なんかがね。信心辛抱と言う事が、もう先生の信心の信条だと、まぁ言われております。けれども先生の場合などは、もう辛抱すると言う事がなくなってしまっておられる。どんなに事が例えば起ころうが。どんな時であろうが。もう辛抱しきれんち言う事がない。もうそれをただ有難ぁと受けておられる。
もう辛抱という言葉すら、恐らく先生のご晩年の頃には、もう無くなっておったと思うですね。豊かな心大きな心。もう本当にぐうぐ言うて堪えとった。血の涙の出ろうごたったという様な時も、やっぱりおありになったろうと思う。けれどもそれを神様へ縋って、辛抱し貫いておられる内に、もう辛抱という辛抱という言葉は、もう石橋先生の上には要らないと言うぐらいに、おかげを受けてある。
四神様がなあ石橋さん、信心辛抱さえしとら、物事は整わんことはないぞと教えられた。それをいよいよ掛け守りのようにして、信心を進められていくうちに、辛抱という言葉がなくなるほどしの、言うならそれを信心辛抱の徳と言うのだという訳です。身に徳を受ける修行じゃと仰る。その辛抱こそが有難そうに、心経や大祓いをあげても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然。はぁ有り難うございます。もうこげな有難い神様はございません。おかげを頂いて有難いと、例えば言うても。
有難いならば有難いという真を現さなければいけない。でなかったら有り難うございます、有り難うございますは嘘になる。昨日ちょうどここで研修をしております時に、ある方から電話が架かってきた。実は繰り返し神様にお知らせを頂くのが、袋という字を頂く。一代二代の代を書いて、下に衣という字が書いてある。どういう風に頂いたらよいでしょうかという電話であった。この方はもう金に恵まれ、健康に恵まれ家庭に恵まれ、もうそれこそまぁ恵まれ過ぎるぐらいに恵まれておられる。
ご信心はご自分だけ。それはもう何時もお参りになるときに、ほうあげな大きなヒスイがあるだろうかち言うごたる。重かろうと言うごたるヒスイを、ここにこう首飾りにしてこられます。それがほんなもんじゃん。ほらもうダイヤの指輪でん、何でんもう、もう偽もんじゃ無かろうち言うごたる大きなダイヤの指輪をしてます。いわゆるもう本当にもう、全てに恵まれておられる。けれどもそんなに全てに恵まれておっても、やはり悩みは尽きない。色んなやっぱり心配事やらある。
みんなそれでまぁここへ、まぁお参りをなさる。神様からこの頃色々と言うなら、合楽でいうこの天地のリズムをこの頃聞かれる。ですから一日がなるほど有難い、有難いそのまぁ実感の中におかげを頂かれる。ところが今度頂かれた袋という字が、そのどうも分からんから、御神意を伺うち言う事である。例えば代という字を書いて、下に衣と書いてある。何と言うても衣食住の徳人間の幸せの条件と言うものはね、この衣食住が足らわなければ、本当の幸せとは言えません。
着る事着物ですね。食べる事住まい。その衣食住の徳という、その一番上のそれこそ、人が買いきらん様な高価なものも身に着けれる程しのおかげを頂いておると言う事をです。ひとつ悟りなさいと。自分程しにおかげを頂いておるものはないなぁと、分からせて頂いたら、もう本当に恵まれております、有り難うございますと言うだけではなくて、それを代をもって還元していきなさい。代と言う事は分かりますね。代。私の母が何時もこう帳面につけておるのを見ると、あの品代という風に書いておりますね。
品物の代金という意味なんです。お神酒料と言うでしょう。お神酒をほんならお供えなさいます。お神酒の代という意味。ですから例えば着物一つでも、このような高価なものを着せて頂いて、それこそ衣食住に事欠かないと言う事だけでも、もう大変なおかげを受けておると言う事ですけれども、それがあなた一代で終わってはなりません。それがなるほど信心はなくても、衣食住に恵まれておる人はあるけれども、その衣食住の徳と言う事にならにゃいけません。衣食住の徳を残しておかにゃいけません。
そこでほんなら、今日の御理解から言うとです。心経や大祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃと。どんなに恵まれておっても、私はほんに恵まれておって幸せと思います。有難いと思いますと言うても。それが人のため世のため、又はこれなら間違いなく天地へ還元されると言う事を極めさせて頂いたら。ただ有難いと言うておるだけでは、それは神に嘘を言うも同然じゃと言う事になるでしょう。その有難いと思うておる事が、そこに形になって現れる代になって現れる。
それには社会に貢献することもいいでしょう。けれどもそれはいわばひょっとすると、間違いになる様な事もある。人間の考えでは。そこで一番間違いのないのは、天地に対する還元なんです。ある篤農の先生が言うておられる。例えば百姓が作物を作る。稲なら稲作を作る。その稲作の藁だけは、天地に返して行け地に返して行けと。これが還元なんです。ですから何時も言うならば、ひとりでに物が出来るような、いわゆるおかげになるのだと。還元とそれを申しますね。
天地に対するおかげを頂いておる事の御礼を返して行こうとするね。ですからお取次ぎを頂いて。天地金乃神様へ通うような還元は、お取次ぎを頂いてお取次ぎに、金光大神のお徳に縋って、還元させて貰うことが、一番間違いがないと言う事になるのです。なかなかそういう還元が出来ません。神に嘘を言うも同然。はぁもう有難いと思います。おかげ頂いてない命を頂いて有り難うございます。も、ほんなら言うておるだけであるならば、それは還元にはならない。
いや神に嘘を言うも、お前の有難いというのは嘘だと言う事になる。そこでその有難いものが形によって現される。それを還元。いわゆる代がお供えされる。そしてどう言う事になりますか。代を書いて衣とかくと、袋という字になるでしょう。その袋こそがおかげの受けものであり、徳の受けものであるのです。還元をしないから、神様がおかげを下さろうとする働きがです。例えば病院代になったり。医者代になったり、苦しい思いをして沢山のお金を払わんならん。
それが場合には。罰金になったりする。罰金を納めんならん。神様は信心しておかげを頂きたいと、切実に願うその氏子の上には、もしこの還元が出来ないならばね。腹痛を起こさせて浣腸してからでも出すと仰るですよ。食べたものが、下に下らないなら。それこそそれが病気の大きな元になる。それでは本人が助からないから、それこそ浣腸してでもと言う事は。痛い思いやら歯がゆい思いやら、情けない思いをさせてからでも罰金がその通り、医者に払うのがその通りなんです。
痛い思いをさせてでもあれをとあら、あんた達が還元をせんから。神様は浣腸して出しよりなさるとこう言う。こんな馬鹿らしい話はないでしょうが。そこをほんなら有難いと思うたら、有難いと思う丈思う料を、神様へお供えをさせてもらうと言う生き方こそです。神に嘘を言うていないことになる。有難いというと神様が本当に受けてくださる。その有難いという心が、また次のおかげを頂く元になる。真に有難いと思う心がすぐにみかげの初めと仰るのは、そう言う事なんです。
ただ有難いと思うとりますと言うとが、真に有難いのじゃない。真に有難いならば、それが有難いという形に現されてこそ初めて。神様が、すぐにおかげの元になる。代そして衣。それが袋と言うならば、おかげを受ける受けものにもなりましょう、お徳を受ける受けものにもなりましょう。私は昨日研修の時にちょうどかかったつがそれでしたから、先生方にみんなに申しました。なかなかね、本当にここにこの人が、本当に美しい心で、本当に御礼の印にお供えが、どんどんどんどん。
例えば出来るとするなら、後は限りなしにおかげの受けられるお徳を受けるんだけれどもね。さぁなかなかお供えしなさいとは言い難い。またそれは金光様のご信心にはもとる。寄進勧化をしてはならんと仰るから。けれどもおかげが頂かせたいならね。例えば今日今電話で私がお話をしたような事を、いっちょ覚えときなさい。そして誰々さんは、こう言うお知らせを頂いて、こう言う事を実行されて、こういう徳を受けられたと言うなら、話しがしよかじゃないか。
これはもうお取次ぎの教師にだけしか、教えられんことだけれどもねと言うてまぁ話したことです。しかしお互いがですいよいよ、六十八節六と言う事を、いわばお徳と言う。それにプラスするもう広がりに広がる。おかげは頂いても頂いても頂きたい。もうこれで良いことはない。もちろんお徳ともなればいよいよ、これで良いと言う事はない。もう限りないお徳を頂きたい。そんならです雨が降るから風が吹くくらいな事で、信心が挫折する様な事ではね。
本当な事じゃないと同時に、その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃ。しかもその辛抱のおかげを頂いて徳を受けると、もうそこには辛抱という言葉はないほどしに、おかげになる。有難そうに大祓や、心経を幾らあげてもです。幾ら声を大きくしてはぁ信心ちゃ有難いですばいち言うとるだけでは、神に嘘を言うも同然じゃと言う事なんです。だから本当に有難いと思うなら、有難いと思うだけの丈をです。神様に現さなきゃいけない。そこからです限りない言うならば。
天地へ対するところの還元ですから、それがひとりでに物が、また出来てくるようなおかげにもなってくる。それが限りない信心の徳にもなってくる。なるほどお供えは決めるな定めるな。お供えは決して少なくしてはならん。それが段々、多くなっていくおかげを頂かんならんという風に言われるのも、この六十八節なんです。六にプラスその上に広がりに広がっていく。おかげは限りなく頂きたい。お徳も勿論これで良いと言う事は、限りないお徳に触れて行きたい。
そんなら信心辛抱がもう辛抱にならないような有難いと思うなら、有難いと思う丈がです、還元されていけれるような、そこに真を現す。信心させて頂いて私が神様に、これは毎朝お願いさせて頂く事はです。合楽にご神縁を頂いて居る人達が、どうぞ日まさり月まさり、年まさりのおかげを頂きますように。そういうおかげの頂けれる信心を、身に付けてくれますように。そしてその信心を真をです、現すことが出来ることによって、代まさりのおかげが頂きますように。
いよいよ真善美輝かんばかりのおかげを目指して、信者一同がそれに進んでいきますようにと言う事は、もう毎朝このことだけは願うです。だから日まさり月まさり、年まさりのおかげを頂かなきゃならん。そしてそれが代まさりのおかげを頂いていく時に、お徳が必要である。お徳でなからにゃ後には残らん。ほんなら有難いと思うておりますという、その裏付けがです。代であり袋でありそれに、一杯詰めていくおかげとお徳というものが、そこに約束される訳です。
昨日はこの頃大阪の先生方が、教務所長他二名の先生方、三名で見えられた時に、若先生にこれはもうまぁ言うなら極秘のものです。合楽で私がその一番初めに見えた時に、応接間でお話したのが、全部ここへ本になってるんです。それでこれはもう本当に、誰にでもは見せられんと言う様な事も出てくるんです。聞かせられない。だからこれはマル秘でと。だから先生はそのつもりでお読み下さいと。
私は夕べ一晩かかってこう読ませて頂いた。もう読ませて頂いて、本当にあの先生方は丸秘と言うけども、これは一般に公開しなければいけないなと思うような事が書いてある。それはほんなことあんなことは、もう一字一句漏らさず、ここにご本になってるんです。もう私はいよいよ、そのあちらの先生方の、その熱心さに驚きました。ほらもう本当にまぁある意味において、金光教の裏から表を克明な私の信心ですねいわゆる。私はかく申しかく信じて居るんだと言う事を、まぁ伝えておる。
だからこう言うものに触れられて、ほんならまた別なまぁ新たな先生方がです。又は教務所長先生を初め。これはこれが本当だと。けども今これを教団に出しよったらやはり問題になる様な事も、やっぱ表現してるわけです。けども本当はゆくゆくは、これが言うならば赤裸々に出される時代が来るだろうと、私は思うです。その中にもです今の還元のことなんかが、もう実にそのもうなんとおかげを頂くはずだと、もしこう言う生き方になればという事が説いてあるです。もっと赤裸々に説いてあるです。いわば教師として、信者に教導する時の言うならば、それが書いてあるです。
同時に今度阿倍野の教会の、五十五年の記念祭に出たご本を、中々入手が出来ないものです、だからこれをそんのとき言いよりなさいましたですもんね。和賀心時代を頂いて、あれをその回しにして読みよったら、どこでかなくなった。沢山の人ですからね。とうと、自分の手元に帰ってこんち言うです。そん時上げようかと思ったばってん。やっぱそげんとば頂こうて思うちから、こればやりなさったつじゃろうと思うのです。
けども私は今度見えたなら、差し上げたいと思うんですけれども、残っておればあげたいと思うんですがね。そのまぁ普通では手に入らないような本も、ここに一緒に持って来てもらって、これも、まぁちょっと読ませて頂いたんですけれども。勿論阿倍野の先生の話ですが、五十年祭の時に話しておられる事と、今度話しておられることは、もう同じ事を話しておられるのに驚きました。教祖の御教えの何か条かを、もう繰り返し繰り返し話しておられます。
そして自分もう二十年も信心しておって、毎日日参までしておかげを頂いておる信者に対しても、難儀な問題が起こってこの人は病気でですね、もう医者から見離された様な病人を家族中、自分のところに呼んで応接間で、そして自分がおかげを受けてきた、一番初めから最後までを、ずうっと話しておられた。もう何十回聞かれたじゃい分からんですね、その信者さんは。私がおかげを頂いたことを、一時間あまりの時間で、その人に全部話させて頂いたらもう私の目の前で、おかげを頂いたと言う話が出ております。
もう偉いなと思います。金光様の先生でも同じ話をね、何遍でも聞かせきったら、もう先生が一人前と言われております。それを二十年間も続けておられる信者さんですから、どのくらい聞いておられるか分からんけれども、それをさらなこと、新たなこととして、自分が初めからおかげを受けて、言うならば五十五年間の、自分がおかげを受けておる話を、ずうっとなさっておられるのが、このご本にも出ておりゃ、五十年の記念祭の時のご本にも出ておる話なんです。もう驚くばかりです。
結局内容がいよいよ充実して見えるから、お話がいよいよお話は同じでも、その中に込められておる力が違う。驚くばかりです。そしてほんなら前も読んだと言う話だけれども、やっぱり読ませて頂きよったら、やっぱり途中で止められん位に有難いです。そして今度ここん所は初めてでしたけれども、有難いといういわばまぁ塊のような先生だと、何時も頂きますようにね。もう今年が八十二歳になられるそうですが。もうその有難い有難いの一念というものがね。
先日もその先代の式年の霊祭を仕えておられるです。その日が言うなら、あの土砂降りじゃったち言う。奥城まで行くためには道のりもあるし、何か色々ブルトーザーなんか出て道修繕があってどぶどぶしとる。そこでお広前からそちらのほうを向いてみんなで。御礼遥拝祭と言うのをなさっておられます。雨の降りじゃから奥城のほうに。そして話しておられる事がです。もう今日のお湿りのおかげで、足も濡らさんですみました。例えば奥城までならば、こんなに沢山は行けませんけれども。
ここからだからこんなにも沢山な人が、遥拝する事が出来ましたと、繰り返しその事を御礼を言うて、話しておられるのに、聞いて驚いたです私は。もし私共が大祭なら大祭、何かのここたいふくさんの言われがある時に、お湿りがあったら、本当に神様相すみません、私の信心が足りませんでしたと言うて、お詫びのほうが先に出るしもう本当に、心は何か責められるような思いがするでしょう。けれどもそげなもんがさらさらない。もうただ有難いというだけ。
御本部に月参りをされると言う時に、何かで口がこんなに腫れられた顔が。それでお参りが出来んから、若先生が代理でお参りになった。もうそれがもう有り難うして、有り難うして、私は初めて介抱する人が、こんなに私に親切にしてくれると言う事が有難いですと、もう有難いばっかりです。確かに十八歳の時ですかね。落語かなんかの話を聞いて。ままかかさんの話が出てきます。頭を出されたら、頭を出されたことは、お母さんが人の頭になれ、人の頭になれと言うて下さる。
尻尾を出したらね。大阪辺りでは、尻尾のことを王と言います。王にでもなれよと言うて、お母さんが尻尾を出して下さる。もうこん奴ばっかりは、なに言うたりしたっちゃ有難い、有難いち言うけん、今度は真ん中出そうち言うて、身のとこだけをついで下さった。もう本当に私のようなものにこんなに美味しい、身のとこばかりを頂いて、有難いと言うて、もうそれこそ落語の話から笑い話のごたるこつ。けれども私の一生はもう、これで行こうと決められてですたい。
なら八十二歳になられる今日までです。例えばそういう大きな霊祭を仕えられる時に、雨の土砂降りを有難い、有難いというて全部に繰り返し、繰り返し話しておられるです。私の祈りが足りなかったから雨が降った。そげなことは全然言うちゃなかです。本当に御本部参拝ち言うのにお参りも出来ずに、神様相すみませんちゃいっちょん言うちゃないです。もう寝て動かれんごとあるのに、もうその介抱してくれる人が、こんなにも真心込めて介抱してくれると言うことは、何と有難い事だろうかばっかり。
もう尻尾を出しても頭を出しても、有難い有難いで、ほうこういう有難い、こりゃ私もいっちょこういう真似せにゃいかんなという風に思いました。それがあの阿倍野の御比礼なんです。本当に有難いの権化のようなお方です。けれどもその有難いと言うものがです。先生の御一代で終わる様な事があってはならないと言うのが大阪の先生方の、いわば心配をしておる訳です。泉尾の願って願ってと言う様な事が、願いが強い祈念力が強いから、三宅先生の所でおかげが頂いておる。
助かっておるというけれども、先生が亡くなられたら、そんな強い祈りというものは出来るもんじゃないと言う事が、もう大阪の信心も言うならここまでだと。そういう意味で、合楽の場合はまぁだ今がようやくほんなら、おかげを頂き始めておるのだからというのが、大体ここに見えた初めでした。そしてここには助かりの理念がある。ここにでも書いてあります。これが若先生が、どう先生の信心を受け止められるかと。いやそれは合楽理念がある限り、合楽理念をマスターして行じていく限り、合楽は私の代よりも、子供孫の代と広がっていくでしょう。けれどこれを守らなかったら、こら分かりませんよ。という風に説いてある。それが大変な魅力なのです。教えて残して置けれると言う事。けども自分の心のなかに頂いておるものは、これは残しておくわけにはいかんのです。お徳ですからそれは残しても置けるけれども。残された徳というものは、後の者がそれを掘り起こしていかなければ、お徳としての現われはないです。けれどもそれを文字にしたり、話にしたりして理論が残っておると言う事はです。しかもそれがほんならやろうと思えば、子供でもやれる。いうならなそうと思えば誰でも行じることが出来る、合楽理念に基づいての生き方を失わない限り、合楽の御比礼は、これはまぁ死んでみにゃ分からんけれども私の代よりも、子供の代孫の代と繁盛して行く事。それこそが教祖金光大神の御理解百節を、そのまま実証していけれると、私は確信すると言うことをほんなら、私が確信しておるその事を、もっともっと深く広く聞きたいと言うのが、今度の大阪の、を、招聘してから話を聞きたいと言うのは、その事なんです。ほんならそういう話を皆さんの場合はこうして、朝に晩に頂いておられると言う事なんです。ですからそれがね、例えば、皆さんの信心でぴったり受け止めて、行の上に現されなかったら、どうなります。
阿倍野の信心のもう一つ、驚きと言う事は五十年の記念祭の時も、それが書いてございましたが。五十年の記念祭が終わったと同時に、五十五年祭の計画が信者全部で出来るわけ。だからその翌日から五十五年祭の事の、言うならば信心がもう速その日から、五十五年祭のためにと言うて積み立てをする人もある、色んな修行を始める人もある。もうここに至って来る時に、徹底したその教導というかね。もう有難いの一念で、それをあの信者に行じさせられると言う事がです。素晴らしいと思います。教会が発展すると同時に、信者はみんな発展しておる。もうここはだから私共の追従を許さない、言うなら場でしょうね。
そこでですほんなら、今日皆さんが聞いて下さった所の話をです。お互いがあぁそれから、もう一つ阿倍野の素晴らしいのはね。日参と教聴という事です。これは家族を挙げてです。あれだけの信者が毎日、家族で日参するのですから。あれだけの人数のものが、毎月、御本部へ月参りをするのですから。驚くばかり。そして教聴いうなら教えを頂く、聴聞すると言う事なんです。ほんならその教えというのがです。合楽でいうこう言う様なお話じゃなくて、もう何時も言うならば、二十年も信心したものの上にでもです。難儀な問題が起こってくると、ほんなら自分の一生一代のことを話されると言うのだから。それでほんなら話し終わった時には、もう先生の目の前で助かっておると言う。もう不思議な不思議な働きを感じますね。合楽のはそれがです。話にしてですから活字にしてからですから。これを言うならば後の者にも、残しておけるが。ほんならこうやって実際じかに。生で皆さんが聞いておられるそれをです。私は早速行の上に現さなければいけない。
今日の御理解の信心辛抱のことがね、いわゆるほんなら。日参です。もう日参と教聴です。聴教です。教えを聞くと言う事。それがほんなら、今日聞いて頂く、信心辛抱が要るんだ。有難い有難いというのが。もし言うばっかりが、神に嘘を言うておるも同然じゃ。有難いと思うなら、有難いという表現をしていくのだと言う事を、袋という字の昨日の、その事からまた聞いて頂いた訳です。だから折角おかげを頂くならば、絶対のもの間違いのない言うならば、還元になる事の間違いのない事にです、還元していくところの信心を頂いて、初めて言うておる事と、本当にあなたの有難いのだと言う事になるから、六十八節になるのです。六というもの徳がそれにプラスした上にも、広がりに広がっていくお互い、おかげは限りなく頂きたい。勿論お徳もおかげ頂きたい。もうお徳をこがしこ頂いたけん、おかげをこれだけ頂いたけん。もうお参りせんで良いと言う事は、絶対ならんという事。広がりに広がるおかげを頂くためには。その為にお互いが日参の、それこそ家族揃うての日参、家族揃うての聴聞をする、御教えを頂くと言う事が、身に付いてそれがもう、自分の血に肉になってしまう所までが、信心辛抱じゃないでしょうかね。
どうぞ。